|
|
付属記念図書館 F館 |
ここには1996年9月13日から1996年12月16日までに発表された15本の嘘が収録されています。 |
|
1996/09/13 |
||
|
神田駅構内にある立ち食いそば屋、「早打ち」。 その名が示す通り、スピードが勝負とされる立ち食いそば屋の中でも、とくに速い。 「いらっしゃいませ」 威勢よく叫んだ店主、速見韋駄天さんは、他の客のためのそばを手際よく茹でながらも、店に入ってきた客から目を離さない。 (この人は、たぬきうどんだな) そう判断した速見さんはたぬきうどんの準備にとりかかる。肝心の客はメニューをしばらくみつめたあと、驚くべきことに 「じゃあ、たぬきうどんを頼む」 と、注文した。 偶然、速見さんの予想が的中したのではない。来る客、来る客、速見さんは超能力で注文を見事に言い当てる。作り始めるのが早いから、できるのも早い。こうしてこの店は、日本一速い立ち食いそば屋の店として有名になった。 そんな速見さんにも、苦手な客がいる。 (この人は、たぬきうどん。いや、きつねそばかな、いや、カレーそばかもしれない。スパゲッティミートソースか。なにいってやがんだ。うちはそば屋だぜ) 優柔不断な客に対しては、さすがの速見さんもお手上げだ。そんなとき、速見さんは超能力で客の潜在意識に直接話しかける。 (さっさと月見そばに決めろ。決めないと、電車に遅れるぞ) 「あの、急いで月見そば作ってください」 と、客が慌てて注文して3秒後、月見そばが出来上がった。 このように、客を思うがままに操ることもできる速見さんだが、意外なことに店の経営はそれほど順調ではない。噂を聞いて多くのサラリーマンたちが店を訪れるものの、肝心の味が今ひとつなためか、定期的に通ってくれる客がなかなかつかないのだ。 「ありがとうございました」 たぬきうどんを注文した客が帰っていく。麺もつゆも、半分以上残している。この客も、二度と「早打ち」にはやって来ないだろう。 速見さんは客の背中に向かって、密かにささやいた。 (明日も来い。こなかったら電車が脱線するぞ) |
|
1996/10/2 |
||
|
四次元将棋名人戦の第二局が長崎市の料亭、出島で行われた。先手は挑戦者・三田大作竜王、後手は七番勝負の第一局を制した山本久男・現名人だ。 序盤、三田竜王は四次元空間の片隅(9,9,9,9)に王を寄せる4D穴倉で守りを固めようとしたが、空間が閉じていなかったために、山本名人がいきなり(1,1,1,1)に銀を下げ王手。万事休すと思われた三田竜王だが、(1,1,8,9)に潜んでいた桂馬でこれを取り、王手飛車取りで切り返した。 「あ、しまった」と扇子で額を打った山本名人、長考2時間のあと、(4,4,4,4)にあった角の存在を思い出して(1,1,1,1)の桂馬を切り、王手飛車角金銀とりで反撃、三田竜王も同飛車で、四方八方ならぬ百二十一方二百四十二方からじわじわと敵の王に近づく。 三十分後、山本名人の(6,6,8,7)歩は起死回生の一手になるかと思われたが、立会人の広川伸介八段が三田竜王の勝ちを宣言した。山本名人は(6,1,8,7)にも歩を置いていたため、二歩と判断されたのである。 感想戦で(7,9,1,9)に自分の桂馬があり、相手に王手をかけていたことに気がついた山本名人、「やはり四次元は奥が深いですね」とうなずくことしきりだった。 |
|
1996/10/2 |
||
|
ジョニーは、アポイント通り、朝5時半に私の家のベルを押した。 「やあ、はじめまして。ぼくがジョニーだよ」 身長180センチはありそうな、この中年の白人は、私が予想していたよりもはるかに日本語が上手だった。 「ど、どうも、よろしくおねがいします」 「こちらこそ。で、早速だけど、始めようか」 「はい」 軽い準備運動のあと、私たちは出発した。海岸沿いの道を走り、丘を一つ越えて、隣り街の市役所前までの42.195キロ。すこし肌寒いが、ランナーにとってはこれくらいがちょうど良い。 ジョニーは英語で簡単な自己紹介から始めた。どうやらニューヨークで生まれ、ロサンゼルスで育ったらしいが、肝心なことはよくわからなかった。 "Do you understand?" と聞かれ、私はうつむき加減で走りながら、首を横に振った。 "Never mind." ジョニーは私をなぐさめてくれているのだろう。それくらいはわかる。 10キロ地点を過ぎたころ、ジョニーの言葉がなんとなく分かりはじめた。ジョニーの趣味は走ること。どうやら、ボストンマラソンにも出場したことがあるらしい。最高のタイムは2時間20分。「素人」ランナーのスピードではない。でなければ、しゃべり続けながら40キロ以上も走れるわけがない。 20キロを過ぎたあたりから、話題が少しずつ複雑になる。UCLAに学び、教育学の修士号を取得したこと、日本には3年前にやってきたこと、共和党を支持していること、などなど。湾岸戦争には反対で、野球はドジャースのファン。寿司はアメリカでもよく食べたようだ。ときおり、簡単なアメリカン・ジョークも混ぜてくれるから、私も気分が楽になり、いつもよりピッチが上がる。 30キロの上り坂にさしかかってから、再び意味不明な部分が増えはじめた。教科書に載っていない複合語がたくさん出てくるためだろうか。ジョニーが話すのは現地の生活と密着した生の英語。教科書で読む英語とはやはり違う。急に自信がなくなり、走るほうも辛くなる。負けちゃだめだ、と自分に言い聞かせて懸命に走り続ける。 35キロ付近の下り坂から、また意味が理解できるようになった。明日からでも単身ニューヨークで暮らせそうな気がしてきた。残り2キロのラストスパートにあわせて、ジョニーの言葉も早口になるが、無理なくついていける。 そしてゴール。タイムは2時間39分。2時間40分を切ったのはこれが初めてだ。TOEICの点数も大幅にアップするに違いない。 「どうだったかな?」 ジョニーが汗をぬぐいながら、再び日本語で私に尋ねた。 「いやぁ、こんなに英語が聞き取れるようになるなんて……。すごいですね、ヒアリングマラソンって」 「そう言ってくれると、ぼくも嬉しいよ。これからも英語の勉強、がんばってね。じゃあ、これで」 足早に走り去っていくジョニーの後ろ姿を見ながら、私は決意した。 いますぐ、タイムリーディングマラソンに申し込もうと。 |
|
1996/10/4 |
||
|
秋田沖で4日、漁獲量激減のためこの3年間中断していたハタハタ漁が解禁された。漁業権をめぐるゴタゴタのため、思わぬモタモタ出漁となったが、すぐに漁民の一人が「あっ、あそこにイタイタ」と魚影を発見、漁船がヒタヒタと魚群に近づく。しかしハタハタのボスが「しばらく来なかった漁船がまたまたキタキタ」と叫び、魚群はスタスタ逃げていく。漁民がオタオタしているうちに、網と網がからまってズタズタに切れ、漁民同士が切った張ったの大喧嘩。「アタタタ」とカンフーを披露する輩がいれば、ナタ二つでメタメタに切り付けるやつもいる。やがて漁船団の態勢はガタガタに崩れ、よたよた歩きの稚魚までもみな去った去った。ハタハタ漁ならぬドタバタ漁を終えた漁民はクタクタになり、無事逃げ果せたハタハタはニタニタしていた。 |
|
1996/10/16 |
||
|
もう10年近くも昔のこと、大学2年の夏休みに、アルデバランの第3惑星、トンネラギルに行った。トンネラギル星人の外観は人間とほとんど同じで、朝は電車に揺られて会社に行くし、夜は家でテレビを観る。違うのは、人間には男と女しかいないが、トンネラギル星人には男、女のほか、43種類もの性があるということだ。 ある夜、トンネラギル最大の街、ネスネラギロンの東駅の構内で、男と女が別れを惜しんでいた。男はネスネラギロンを離れ、遠い街へと向かうらしい。発車のベルが鳴った。男が女の耳元でなにか囁いた。泣き崩れる女。男は次に、女の後ろに並んでいた第3性の手を握った。列車が動きだす。追いかける第3性。男は何か叫んだ。第3性は泣き崩れながら、ランニング姿の第4性にバトンタッチした。いまごろ、第5性は北ネスネラギロン駅で入念に準備運動しているに違いない。第6性はそろそろ新ネスネラギロン駅についたはずだ。こんな風だから、トンネラギル人はマラソンは苦手だが、駅伝になるとめっぽう強いのである。 |
|
1996/10/18 |
||
|
4才児の母親、山田洋子さんがため息をつく回数が、このところ目立って増えている。 息子の博くんの発育が、団地に住むほかの4才児と、ほぼ同じなのである。 こんなはずではなかった。夫は三代前から一家揃って健康優良児、自分は江戸時代の著名な力士、雷電の血を引いている。妊娠中もエアロビクスを欠かさず、博くんは生まれた直後から水泳教室に通わせた。 5才、6才と見間違われなければ、おかしいのである。 洋子さんは振り返ってみる。毎日の食事、生活習慣に問題はないか。乳児の授乳量は適切だったか。細菌に感染していないか。しかし、どう考えても洋子さんは最善を尽くしたはずだった。 ただ一つだけ、洋子さんにはコントロールできない領域がある。ひょっとして、受精の方法が悪かったのではないか。洋子さんは、そんなふうに考えはじめている。 洋子さんは、考えすぎなのではない。科学者たちもまた、受精の方法と発育の相関関係に注目している。 いま学界の注目を集めているのは、受精の直前に精子が持っていた運動エネルギーの大小が、その後の受精卵の細胞分裂の速さや、動作のスピードを左右するという学説である。実際、ゴキブリの精子は成虫に負けず劣らず速い。ナマケモノの精子は顕微鏡で見ると実に怠惰な動きを示す。 人間の精子の動きには、個体差がある。平均速度は父親の体質や遺伝により大きく異なるし、精子一つ一つの速度もまちまちである。幸運にも、速い精子が卵子と結合した場合、その子はすくすくと育つだろう。逆に、遅い精子が卵子と結合したり、速い精子が何らかの原因で減速してから生まれる子は、何をするにも周囲の子供より一歩か二歩遅れるはずだ。 筑波学園都市内の高エネルギー物理学研究所を舞台に、いま、ある研究が進んでいる。電子・陽子衝突型加速器、トリスタンを用いて、超高速度で精子と卵子を衝突させ、高エネルギー赤ちゃんを育てようという試みである。 マイナスの電荷を付加された精子は、全長3000メートル余りのリング内で加速され、500億電子ボルトものエネルギーを蓄える。分かりやすく言えば、スキン1万枚を軽く突き破るほどの力である。 プラスの電荷を付加された卵子は、同じリングの中を逆方向に進む。エネルギーは精子と同じく500億電子ボルト。分かりやすく言えば、5000錠のピルを無駄にしてしまうほどの力である。 卵子と精子は観測装置の中で受精し、そのままボランティア女性の子宮に移される。 実は、高エネルギー物理学研究所ではこれまでに数回、実験を行い、うち一回は受精に成功している。母体のなかで細胞分裂が順調に進んだのも確認されたが、生まれてきたのは元気なオオツクヤドカリだった。巨大な運動エネルギーのために、もともと46本あった人間の染色体が砕け、254本に増えてしまったのが原因らしい。 オオツクヤドカリの赤ちゃんはすくすく育っており、1週間に一度は引っ越ししている状態だという。人間の高エネルギー赤ちゃんが誕生するのも、そう遠い将来のことではなさそうである。 |
|
1996/10/28 |
||
|
ツツタコ村は、ソマリアの首都、モガジシオから南西に向かってジープで約半日の距離にある。 今年のツツタコ村は、例年に増して暑い。例年なら平均気温は三五度程度だが、今年は三十九度に達している。四度の差は、言ってみればボランティアの心のぬくもりである。 いま、ソマリア南部では日本のボランティア団体「ぬくもりの会」が、こたつ普及運動を推進している。代表の川瀬美枝さんが「殺伐とした心が赤外線にほだされれば、部族紛争は逆に下火になるのではないか」と輝かせる瞳からも、赤外線はやはり出ていた。 最初の仕事は電力源の確保だった。ツツタコ村には太陽の光が春夏秋冬を問わずさんさんと降り注ぐ。「ぬくもりの会」ではまず、日本で集めた市民からの寄付、五千万円のほとんどを費やして太陽電池を村の中心部に据え付けた。赤外線ランプは大阪の家電メーカーから旧タイプの在庫部品を安価で譲り受けた。しかし、このほかの材料を購入する余裕はない。幸い、地元の密猟者グループが大量の素材を無償で提供してくれた。 象牙の骨組み、トラ皮の布団、海亀の甲羅の天板という自然の恵みを存分に活かしたこたつの中で、村人の一人が紅白歌合戦のビデオを見ながら日本産のみかんを食べていた。頬を濡らすのは涙なのか、汗なのか。村人はソマリア語でこう答えた。「ダセ アノ ロココ ハダ ミナ」。あえて日本語に訳すとすれば、「涙は心の汗だ」といったほどの意味か。 川瀬さんは、こたつに入ったことのない子供がいる限り、私たちの使命は終わらないと語る。ユニセフの調べによれば、世界の人口のうち四十九億人は、こたつという物がこの地球に存在することを知らない。 NIFTY-SERVE FCOMEDY 第1回嘘競演参加作品 お題:「こたつ」 |
|
1996/11/7 |
||
|
「俺なら、総理大臣の名に恥じないよう稽古に精進します、って言うけどな」 |
|||
|
この日、初登院した旭道山代議士。衆院本会議で自民党の橋本総裁が総理大臣に指名されたのを聞いて。
|
|||
|
「なんといっても、カイワレの試食でしょう」 |
|||
|
新厚相の小泉純一郎氏。民主党の菅直人代表と政策面で協力する余地があるかと尋ねられて。
|
|||
|
「過去の記事を参考に、フォーマットは数十種類、作ってある。あとは適当なものを選び、名前を入れれば、すぐに本国のデスクに送れる」 |
|||
|
韓国・東亜日報の特派員、イ・ジルヨムさん。閣僚就任記者会見で「戦争正当化」発言が飛び出した場合の対応について。
|
|||
|
「北海道沖縄アンド足立区にすれば、大都市に住む人々にも支持していただけるのではないでしょうか」 |
|||
|
北海道沖縄開発庁の新長官に選ばれた稲垣実男氏。同庁の不要論が浮上していることについて。
|
|||
|
「えっ、そうなの?」 |
|||
|
新郵政大臣の堀之内久男氏。官僚に「郵政の最高責任者になっても、クロネコヤマトは割引してくれない」と告げられて。
|
|
||
|
1996/11/18 |
||
|
夏のある日、左足の小指のあたりが突然かゆくなった。 靴下を脱ぐと、皮がむけ、赤くなっていた。どうやら水虫らしい。 私にとり、初めての体験だ。世の中には、かゆいところをかくときの快感がくせになり、わざと水虫を飼っている人もいるらしいが、私にそういう趣味はないので、早めに撃退することにした。 妻に頼んで、近所の薬局でチューブ入りの水虫薬を買ってきてもらった。患部に塗ると、痛みが走った。これなら効きそうだ。私は、水虫の菌が断末魔の叫びを残して死んでいく様子を想像した。 ところが、1週間ぐらいしてまた同じ場所がかゆくなった。患部は小指だけでなく、中指あたりまで広がっている。効かなかったのだろうか。 今度は私自らが薬局に行き、「一番強力な水虫の薬」を買い求めた。薬屋の主人が店の奥から持ってきたのは「ヌクリアー」。きのこ雲をモチーフにしたパッケージのデザインは、いかにも効きそうである。 「ヌクリアー」という名前は、はったりではなかった。局部に塗った瞬間、核爆発が起きたかと思うような激痛が走った。しかしこれこそ「肉を切らせて骨を断つ」。水虫の菌は木っ端微塵に吹き飛ばされたに違いない。 信じられないことに、私が勝利の喜びに浸れたのは1週間だけだった。以前にも増して激しいかゆみが私の左足を襲った。 薬に頼るのはもうやめた。水虫に苦しんだ経験をもつ友人の紹介で、私はある病院を尋ねた。水虫界では有名な物理療法のメッカ、ということだった。 診察室に入ると、看護婦が床の上にコンロを置き、天ぷら鍋を火にかけていた。私は医者に命じられた通り、靴と靴下を脱いでから、おそるおそる左足を天ぷら油の中に入れた。 熱い。 私は絶叫した。それは、痛みのためだけではなかった。私は勝ったのだ。あの執念深い水虫菌に勝ったのだ。どんなに強靭な生命力をもつ水虫菌と言えども、200℃に熱せられた油の中で生きていけるわけがない。 看護婦が左足に巻いてくれた包帯を見つめながら、私は水虫菌との壮絶な戦いを振り返っていた。まさに、好敵手。これほど手強いライバルとめぐり会うことは、死ぬまでないだろう。 ところが、水虫菌は好敵手であるばかりではなく、不死身でもあった。包帯でぐるぐる巻きにしたことが菌の育成を助けたのか、あれよあれよという間に態勢を立て直し、1週間後には左足の小指から親指までを占領してしまった。 私は天ぷら鍋の病院を再び訪ねた。先生は少し考えたあと、「どうやら、電気ショックしかないようですな」と告げ、こう付け加えた。「これは極めて危険な方法です。患者さんが命を落とすこともありますよ」 水虫菌の捕虜として生きるか。それとも、命と名誉を賭けて水虫菌と戦うか。私は迷わず、最後の戦いを選んだ。 誓約書にサインして、何が起っても病院に賠償を請求しないことを約束したあとで、私は電気イスならぬ電気ベッドに横たわった。 まず、200Vを1分間。すぐに先生が患部の皮膚をわずかに切り取り、顕微鏡で確認する。水虫菌はまだ生きていた。相手がそれほど軟弱だとは、私も最初から思っていない。 次は300Vを2分間。先生は顕微鏡をのぞいてから、首を横にふった。「まだだ」。それでこそ好敵手。相手にとって不足はない。 さらに、400Vで5分間。水虫菌は10分の1に減ったが、少しでも残っていれば、増殖してすぐに元通りになる。先生は「やめましょうか」と私に聞いたが、ここで引き下がれば今日までの苦労が水の泡になる。 500Vで10分間。生存している水虫菌は100分の1に減った。私も意識が朦朧としてきた。ただ、敵に勝ちたいという動物的な本能が、私を支えていた。 先生は電圧を600Vに上げた。このときすでに、私の感覚は麻痺していた。白い霧の中で、水虫菌が苦しんでいるのが見えた。すぐに情景が変わった。今度は、妻と娘が泣いている。「お父さん、どうして死んじゃったの」 私は我に帰った。いったい、私は何をやっているんだ! 家族のことを忘れて、水虫菌との戦いに命を賭けるなんて、正気の沙汰じゃない。先生もうやめて下さい、と言おうとしたその瞬間、私は、最後まで生き残った1匹の水虫菌の声をはっきりと聞いた。 「ボクもがんばる。キミもがんばれ」 |
|
1996/11/23 |
||
|
「そうですか……。いえ、いいんですよ。どうもご丁寧にありがとうございました」 電話に出た母親の口調から判断して、15回目のお見合いも失敗に終わったようだ。 最初の数回は慰めてくれた母親も、10回目を過ぎたあたりから娘を責めるようになった。 「『の』が丸すぎるって。だから、あんな仕事さっさと辞めてしまいなさいって言ってるのよ」
* * * 31歳の独身女性、円地丸美さんは、某活字メーカーに勤務するフォントデザイナーだ。専門は丸文字で、日本で使われている丸文字系フォントの半分近くは円地さんがデザインした。 あらかじめ母親に命じられた通り、見合いの席では畳の上に指で「の」と書いたつもりだったが、先方の両親が「丸すぎる」と文句をつけたのも無理からぬ話だった。職業柄、円地さんは、「田」「口」「品」など角張った漢字もすべて丸く書いてしまう。これ以上丸くなる余地がないように思われる「の」さえ、円地さんの手にかかると一段と丸くなった。これは、円地さんが丸文字デザイナーを続けている限り、逃れることのできない宿命だった。 翌日、円地さんは仕事中に何度も何度も深いため息をついた。やりがいのある仕事ではある。しかし、これでは円満な家庭を築くことなど、まるっきり望めない。 円地さんは意を決して、辞表を書きはじめた。
この度、一身上の都合により……
ある程度、予想はしていたが、何回書き直しても見事な丸文字になった。辞表というものは、行書とか、楷書とか、悪くても明朝体でなければならない。丸文字の辞表など、受理してもらえるはずがなかった。
「円地さん、ちょっと来てくれたまえ」 部長に呼ばれた瞬間、円地さんは決意した。こうなったら直接部長に辞意を伝えよう。 「あの……。部長……。実は……」 「円地さんね。大変なことになったよ。さっき専務から連絡があって。今度うちで、タイ文字、ビルマ文字、タミル文字とか、南インド系文字のフォントを丸ごと開発することになったらしいんだ。忙しくなるが、頑張ってくれよ」 「はい。がんばります。よろしくお願いします」 としか、円地さんには言えなかった。丸文字の宝庫、南インド系文字のフォントの開発を任されたのだ、マルモジストとしてこれ以上の名誉はない。 なんだか部長にうまく丸め込まれてしまったような気もするが、円地さんには、何かを頼まれてイヤということができなかった。生まれつき、角の立つことは嫌いな性格なのである。 |
|
1996/11/24 |
||
手書き入力デバイスを平面から女性の背中の形に変更し、発声機能を付けたことは高く評価されてしかるべきだが、10分かけて「ね」を「わ」としか認識できないようでは全く使い物にならない。メーカーに早急な改善を望みたい。
|
|
1996/12/04 |
||
|
首相の諮問機関である経済審議会が3日、経済行動計画を首相に提出した。日本経済を「生産者主体から消費者主体に変えるため必要な改革」がいくつも盛り込まれている。 この日、経済審議会の豊田正一郎会長はスキンヘッドに特攻服という格好で首相官邸に現れた。車はいつものセルシオではなく、1972年式のセリカにV6エンジンを搭載した改造車。サイレンサーが外され、前後のタイヤがフェンダーからはみ出しているなど、明らかに道路交通法に違反している。豊田会長としてはアウトローな一面を誇示して、規制緩和の必要性をアピールしたかったようだ。 報告の中で最も注目されているのは貨幣経済の抜本的な改革。従来は財・サービスの購入者が提供者に払っていた貨幣を、提供者が購入者に支払うようにするべきであると提案している。「ねえ、豚ロース3切れちょうだい。あした、子供がテストなのよ。あらやだ、お財布忘れて来ちゃった。またあとで来るわ」といった状況に象徴される日本経済の閉塞状況を打破し、民間消費を刺激するのが狙いだ。 分野別では、金融市場の改革についてとくに幅広い提言が盛り込まれた。業種間の垣根を取り払い、現在、練馬農協が一部の支店で実施している預金者向けねぎ無料提供サービスを、都市銀行や長期信用銀行も取り扱えるような環境を整えるよう求めている。 一方で高い通信コストが多国籍企業の日本進出の妨げになっているとも指摘、NTTによる国内電話市場の寡占状況を解消するために、0から9の数字のうち、2〜9を第二電電に割り当てることを求めている。実現すれば「ピッポッパ」が「ピッポッピ」に簡素化され、コストダウンにつながるため、この構想にはNTTも前向きだと言われる。 海外との較差が問題になっている航空運賃は、国内線にパキスタン航空の乗り入れを認めることで低めに誘導するよう提言している。安全性が確保できないといった反論を想定して、自分の命は自分で守る「自己責任制度」を空の便にも導入する必要がある、との文言も盛り込まれた。 今後、政府がどこまで規制緩和を実行できるかは、橋本内閣の行動力にかかっている。豊田会長の報告を聞いた橋本首相は、早速頬に安全ピンを刺し、会場に鶏糞をばらまくなどして、アナーキーな一面を強調していた。 |
|
1996/12/12 |
||
|
「先生、こんばんは」 |
|
1996/12/14 |
||
|
欧州連合(EU)は13日夜、アイルランド・ダブリンで首脳会議を開催し、通貨統合後の通貨名称を「ユーロ」とすることを最終的に確認した。併せて、統一通貨記号も決定された《写真》。 「ユーロ」の記号は、紀元前2世紀にクレタ島で使われていた貨幣を表す文字「ユゥスク」をもとにデザインされた。ローマ時代には大浴場を示す記号として使われた経緯があるため、一部の加盟国からは適当でないとする意見も提出されたが、結局は欧州中央銀行の原案がそのまま採択された。 通貨の名称についても、英やオランダの蔵相が息の長い通貨に育てという願いを込め、「ユーロ」ではなく「マルクフランペセタドラクマポンドリラシリングエスクード」とするよう求めたが、「長すぎる」という簡潔な理由によりあっさりと却下された。 通貨統合実現の目標は1999年。来年初頭から各国の硬貨がルクセンブルグ造幣局に続々と搬入され、直径52キロメートルの巨大な硬貨の鋳造が始まることになっている。 |
|
1996/12/16 |
||
|
アメリカ国務省でロシア担当の国務次官補を4年間にわたり務めてきたウィリアム・レズニックは、ひどく憤慨していた。その日、次期国務長官が第2期クリントン政権の発足を前に発表した国務省高官のリストに、レズニックの名前が含まれていなかったからだ。 「私に何の落ち度がある。この4年間、ロシアはほとんどアメリカの思うように動いてきたではないか」 明日から仕事を探さなければならない。大学の教壇に立つか、民間の研究機関に行くか。自分の臨む仕事が必ず見つかるとは限らなかった。息子の学資は払えるのか。妻になんと説明すればいい……。怒りはすぐに不安に変わった。 レズニックは、車を運転して帰宅する途中で、カーステレオの中にCDを入れた。 "Horowitz in Moscow" 辛いこと、悲しいことがあると、決まってこのCDが聞きたくなる。 * * * それは、伝説のピアニスト、ウラジミール・ホロビッツが1986年、当時のソ連で61年ぶりに開いたコンサートの模様を収録したCDである。 最初の曲、スカルラッティーのピアノソナタが聞こえてきた。レズニックは車を路肩に停め、目を閉じた。美しい調べに励まされたような気がした。涙がとめどなく溢れだした。ロシアが産んだ伝説のピアニストの演奏を、おそらくは生まれて初めて聞くであろう聴衆の中に、レズニックもまた含まれていた。10年前、彼は米大使館の一等書記官としてモスクワに派遣されていた。本来は大使が米政府を代表してホロビッツの演奏を聴くことになっていたが、風邪で熱が出たため、急きょレズニックが会場のチャイコフスキー音楽院に駆けつけた。 巨匠の指先が軽やかに奏でる美しいメロディーに混じって、咳の音が聞こえた。ライブである以上、それは仕方のないことではある。ただ、大量の痰がからんでいることを示す破裂するような十数回の咳は、周囲の聴衆を不快にさせたはずだ。それは誰よりもレズニックがよく憶えている。 咳をしたのは、他でもないレズニックだった。スカルラッティーが終わり、二曲目のモーツァルトの演奏が始まるまでの短い時間に、民族の英雄の演奏を邪魔されたことに激怒したロシア人数人の手で、レズニックは会場の外へとつまみ出された。 * * * レズニックは涙をぬぐい、カーステレオを消した。二曲目以降は聞いたことがない。レズニックの"Horowitz in Moscow"はスカルラッティーだけで終わったのだ。 しかし、モスクワでの苦しみはその後も続いた。もともと風邪ぎみだったレズニックは、その夜、冷たい雨に打たれながら宿舎に戻ったため、重い肺炎にかかってしまった。一時は生命さえ危ぶまれた。 それでもレズニックは不屈の精神力で蘇り、3ヶ月後に帰国。ワシントンの国務省で数年働いたあと、国務次官補に抜擢された。「私はあのピンチを乗り越えたのだ。今度のピンチだって、何とかなるに違いない。ホロビッツは死んだが、私は生きている。生きているんだ……」 レズニックの車は、家族と蒸気吸入器の待つ家に向けて再び走りだした。 |
Fiction is stronger than truth.